目が覚めると辺りは真っ暗だった。
頭がぼうっとする。むっとする匂い。ひどく喉が渇いている。体を起こした。頭が何かに当たり、がんと鳴る。
「った・・・」
もう一度ぶつけないように腰をかがめ、菜摘はマスクの上から頭を撫でた。
暑い。いや、蒸し暑い。
吸う空気に異様な温度と湿度を感じ、マスクを取る。匂いが濃くなるが、息苦しさはほんの少しだけ和らいだ。ショートカットの髪が額や首にぺったりと張り付いている。汗、だけではない。空気に含まれる蒸気が、スーツを着たままの菜摘の体に張り付くたびに大きな水滴になってこぼれていた。マスクの内側を撫でると、脱いだばかりのそれにもびっしりと露がついている。
「・・・ここは」
呟くように出した声が反響する。足元を踏みしめた。固い感触。蹴りつけると、かん、と鳴った。金属の薄板のようなものだ。が、何かがおかしい。
「穴・・・?」
足元には靴のかかとほどの大きさの穴がいくつも並んでいた。落ちることはないが、気味が悪い。手をつくと匂いが強くなり、頭がくらりとした。這うように進んでみる。数歩も進まないうちに壁に当たったが、その際まで穴の列は続いていた。壁に沿ってぐるりと回ると、どうも狭い円形の部屋らしい。手の届く範囲を撫でてみたが、すべて穴が等間隔にあいていた。
閉じ込められた。それも一人で。一緒にいたはずの洋子の顔がちらりと頭をよぎった。
ぼこ、ぼこ、と何かが浮き上がるような音にはっとする。下からだ。妙な匂いも異様な熱気も蒸気も、どうやら穴の下からくるようだった。
「・・・」
サウナのようだ。ぼんやりとした頭で菜摘は考える。もうもうと昇ってくる湯気、風のない密閉空間。
でも違う。サウナならば完全に密閉はされないし、明るい。この匂いも、壁や床の素材が金属でできているのも不自然だ。何より私、志乃原菜摘が変身スーツ姿でサウナに入っているなんて。
しゅうっ、と音がした。四つんばいのまま、思わず上を見る。天井の一か所に小さな穴が開き、白い光が差し込んでいた。ほんの一筋の光だったが、部屋を見渡すには十分だった。曲がった壁が、円形の床が、湾曲した天井すら、銀色に光を跳ね返している。
しゅうっ。また、音がした。僅かに冷たい空気。
狭い理由がわかった。暑さと湿度の理由も、壁や床が固い理由も。
「・・・蒸し器・・・」
呆然と口にすると、菜摘はあわてて立ち上がった。がんと頭を打ちつけたが、気にしてはいられない。下で沸いているのはおそらく酒だろう。酒蒸し状態というわけだが、冗談じゃない。こんなところに閉じ込められていたら死んでしまう。目が覚めたのだって奇跡に近いくらいだ。
天井に手を当て、思い切り力を込める。重い。が、動いた。さっきとは違う、細い筋状の光。さっきよりも冷たい風。
「う、くうっ・・・」
眉をしかめて天井を押し上げながら、菜摘の頭にはここに来るまでの記憶がよみがえっていた。
ボーゾックが出た場所に洋子と二人だけで駆け付けたのが間違いだったのかもしれない。恭介、直樹、実が今日に限っていないことに、もっと疑問を抱くべきだった。
「すいませーん、車がおかしくなっちゃって」
妙なサングラスをかけた男が首をさすりながら尋ねてきたのは昼過ぎのことだ。
「ここの前で壊れちゃったんですけど、来てもらえません?」
「はーい」
行ってみると確かに埃をかぶった車がペガサスの前に横付けされていた。が、異常に汚れているほかは故障と言えるほどのものはなく、何故止まったかすらわからない。部品を丸ごときれいにしようかと提案すると、サングラスの男は顔をしかめた。
「いやー、それ時間かかりますよね」
「まあ、これだと二日くらいは」
「困るなあ。さっき、止まった拍子に首を痛めちゃってね・・・」
「はあ」
「それは大変ですねえ」
苦笑して返事をした菜摘の肩を大きな手がぽんとたたいた。
「あ、実」
「俺に任しとき。お客さんゲットのチャンスかもしれんやろ」
そう耳打ちすると実は男の方にずいと体を乗り出した。
「じゃ、こういうのはどうでしょ。うちに一人暇なのんがいますんで彼と一緒にお客さんには病院行っていただいて、お車をこっちでお預かりする、と」
「おお!ありがたいですねえ。ぜひぜひ」
「よっしゃ。じゃあ善は急げで行きましょう。恭介ーっ」
サングラスの男と恭介を見送ると、実は菜摘に向き直った。
「ほな、洋子と留守番よろしくな」
「え?」
「あ、言ってへんかったっけ」
「何を?」
「こないだ行ったとこの人が今電話くれてな、新しく車買いたいんでデザイナーと一緒に来てくれって」
「直樹と?・・・それって何か」
「せやけど」
おかしくない、と菜摘が続けるのを待たず、実はせかせかと足踏みを始めた。
「しゃあないやん。今日来てくれんかったら契約しないって言われたら」
「・・・うーん」
「ほなよろしく!行くで、直樹!」
「はいでございます」
二人が走って門を出た直後、今度は洋子とダップが駆けてきた。洋子の手にはカーナビックが握られている。
「菜摘!ボーゾック発生だっぷ!」
「直樹と実は?」
「・・・行っちゃった」
「ええーっ!」
肩を落とす洋子を横目に、ダップは力強く宣言した。
「菜摘、洋子。二人だけでも行くだっぷ!変身だっぷ!」
「オッケー」
「分かった。激走!」
「アクセルチェンジャー!」
立て続けに三人がいなくなったことに疑問を抱く暇もなく、菜摘と洋子、もといイエローレーサーとピンクレーサーは並んでペガサスを走り出た。
「場所は?」
「なんか狭い道を動いててわかんない」
「じゃなくて、この先はどっちに曲がればいいの?」
「え、あ、左」
ペガサスを出て最初の角を勢いよく曲がる。瞬間
「きゃあああっ」
強烈な光と破裂音が路地いっぱいに広がった。
「う、ああああっ!」
両腕に渾身の力を込め、天井を押し上げる。光がさす。匂いが薄れ、さわやかな風が吹きぬけた。そして
「あ、なーんダ。起きたのネ」
ぞっとするような猫なで声がふってきた。
「っ!」
冷たく響く声に一瞬力が抜け、天井に突っ張った手がずるりと滑る。つぶされる。菜摘は息を飲んだ。が、
「あぶないネ、つぶれたらどーすル」
重い天井、いや鍋蓋がゆっくりと持ち上げられた。その後ろから現れた顔に、菜摘の背筋が凍りつく。
「・・・あなたは」
「どーモ、おはようネ」
ぎょろりと剥いた目、こけた頬、白すぎる肌。大きさは二回りほど違うものの、数日前に戦ったボーゾックとよく似た宇宙人がにまにまと笑っていた。
「・・・XX(クスクス)ミレーノ・・・?倒したはずじゃ」
「そうネ、ミレーノはネ。俺は」
XXペキーノ。コック帽をかぶりながら、そう宇宙人は名乗った。
「あのピザ狂いは兄貴ネ」
「じゃあ、あなたも」
「勘違いしないでネ。俺はボーゾックじゃないネ」
「え・・・」
「激走戦隊カーレンジャーにはなーんの恨みもないネ」
「そう・・・」
詰めた息を吐き出す。同時にふらりと体が揺れた。慌てて鍋の淵を掴む。目の前がちかちかと明滅した。
倒れそうになるのは当たり前だった。鍋で酒蒸しにされた後、自分をつぶすほどの大きさの蓋を持ち上げたのだ。変身こそ解けないものの、菜摘はかなり消耗していた。
「ふーム」
ペキーノは鍋の淵にすがる菜摘を見ると、考え深げに口を開いた。
「お前、チーキュ人だったのネ」
「えっ」
「てっきりどっかの星の賢い生き物だと思ってたネ」
しまった。菜摘はほぞを噛んだ。ボーゾックは自分たちのことを宇宙人だと思っている。これは知っていた。他の星にその認識が広がっていることも知っていた。どうして思い当らなかったのだろう。ボーゾックでなかろうと、人間を生きたまま酒蒸しにしようとする奴に自分の正体なんて知られていい訳がない。
もう手遅れだ。足元に転がっているはずのマスクがとてつもなく遠く思えた。
「お前の仲間もチーキュ人かネ?」
「・・・」
「言えないかネ」
「・・・」
唇をぐっと引き結び、菜摘はうつむく。どう答えても間違いのような気がした。目の前がまた暗くなり、明るくなる。はあはあという自分の呼吸音がいやにうるさかった。
「まあいーカ。それはおいおい分かル」
やはり洋子も捕まっているらしい。が、今の言葉ならば、まだ料理はされていないに違いない。祈るような気持ちで菜摘はきつく目を閉じる。
「さて、チーキュ人となると、少しメニューを変えないとネ」
「何ですって・・・?」
思わず顔を上げた菜摘に
「やっぱりお前、勘違いしてたネ」
ペキーノはにいっと歯をむき出した。
「俺は、激走戦隊カーレンジャーに興味はないヨ。でも料理には兄貴以上にこだわりがあるからネ」
安心してネ。おいしく食べるヨ。
ペキーノの声を遠くに聞きながら、菜摘の頭にはたった一つの言葉しか浮かんでいなかった。
逃げなくては。
それも今すぐに。
「それでハ」
「っ!」
伸びてきたペキーノの手がふれる直前に、菜摘は鍋を横切って飛び退った。着地の衝撃に頭がくらりと揺れる。足の力が抜け、尻餅をつきそうになった。踏みしめた足の感覚も鈍い。走れるだろうか。そう思ってしまうほどに、身体はふにゃふにゃして頼りなかった。
「なーんダ、まだ動けるネ」
それでも逃げるしかない。捕まれば、おそらくまた酒蒸しに逆戻りだ。
「生きがいいネ」
「誰が!」
意を決して菜摘は鍋の淵を飛び越えた。着地の勢いで調理台からも飛び降りる。ドアは上げた顔の前に見えた。まっすぐ走れば行ける。出られる。勢いよく床を蹴った。瞬間
「でモ」
ばちばちっ。菜摘の首筋に痛みが走る。息がつまり、今度こそ視界が真っ暗になった。
「もうすこーし、大人しくしててネ。食材としテ」
喉を見せて仰向けに倒れこんだ菜摘を、ペキーノはスタンガンを持っていない方の腕で受け止めた。ぐったりとした菜摘の体が光に包まれ、光沢のある黄色のスーツは着古された赤のつなぎに姿を変えた。
「おー、これはこれハ」
ぎょろぎょろした目を見開いて、ペキーノは菜摘を軽々と持ち上げた。
「肉は傷物にできないからネ。チーキュの道具も役に立つネ」
力の抜けた体を調理台のまな板に寝かせ直す。そして台の下から調味料の入ったバットを取り出した。入念に手を洗い、反り返った肉包丁を出す。
「チーキュ人とわかったら、外皮をむかないとネ」
首筋に張り付いた髪を払って、ペキーノは菜摘の服を脱がせ始めた。つなぎのジッパーを下ろし、バナナの皮をむくように裏返しながら外す。中に着ていたTシャツは包丁で開き、一枚の布にしてしまった。靴と靴下もするすると脱がせる。びっしょりと汗をかいた菜摘の肢体がまな板の上にあらわになった。
「ほーオ」
すらりとした形の良い首。うっすらと腹筋が見えながらもくびれた腰。だらりと投げ出された手足にはしっかり筋肉が付き、薄いとはいえつくべきところには脂肪がある。滑らかな肌は流れる汗を弾のようにはじいていた。
「これは・・・素晴らしいネ」
身体に張り付くように残ったパンツとブラジャー、そしてアクセルチェンジャーを包丁で外しながら、ペキーノは思わず唸り声を上げた。
「あのバカ兄貴、こんなものをピザにしようとしたなんてネ」
低い声でぶつぶつとぼやく。その手はあれこれと香辛料の瓶を吟味していた。
「何でもかんでもピザにするから大きくなれなかったのにネ。大体、チーキュ人とほかの宇宙人じゃあ皮膚の硬さが違うんだヨ。チーキュ人でも食べているものや太り具合は違うしネ。それを皮もむかずに五人ぶち込んで焼くなんて、生焼けになって当たり前だヨ」
いくつもの怪しげな瓶や香辛料をより分け、バットの後ろに出していく。バットには九本の瓶、そしてにんにく、しょうが、唐辛子が残された。
「せっかくだから、すべてチーキュの食材で頂こうかネ」
肉包丁を大きな中華包丁に持ち替え、ペキーノはにんにくと唐辛子を取り出した。
「唐辛子は一つを細切リにして糸唐辛子二。もう一つはみじん切リ。にんにくは軽くつぶしてからみじん切りにすル」
とんとんと包丁を鳴らしながらレシピを復唱する。自分で考えだした調理法は口にするだけで心が躍った。
「しょうがはすりおろス。みじん切りの唐辛子にんにくと一緒に汁ごとボウルにいれル」
直径二メートルはあろうかという大きなボウルに香りの立つしょうがとにんにくが入れられた。ぱらぱらと赤く見えるのは唐辛子だ。
「そこに豆鼓醤、酒、砂糖、醤油、ごま油、塩、胡椒。さらに片栗粉ネ」
茶、赤、白、金。それぞれの色を持った調味料を瓶から注ぐ。それらを軽く混ぜ合わせると、ペキーノは菜摘に改めて目を向けた。
「下味は大事、でもまた暴れたら厄介ネ」
赤茶に照りを持ったたれを嗅ぎ、続いて菜摘の胸に鼻を寄せる。こちらもくんくんと匂いを嗅いでいく。酒の匂い、僅かに機械の油の匂い、そして菜摘の汗とシャンプーのうっすらと甘い香り。
「香り付けは完璧だから急ぎたいのだがネ・・・ン?」
きょろきょろと調理台を見回したペキーノの目が、一点に吸い寄せられた。先程脱がせた菜摘の衣服。僅かに汗を吸ったその布をペキーノはゆっくりとつまみ上げた。
「・・・私は天才かもしれないネ」
破いたTシャツをねじり、両手首に八の字に巻きつける。つなぎは両足の膝に同じようにがっちりと巻いた。
「これで身動きはできないはずネ。でハ・・・」
ばちゃり。
重い水音と体中を覆うぬるぬるとした冷たさに菜摘は目を開けた。
「・・・っ!」
手足が動かない。香辛料のきつい匂い。目からぼろぼろと涙が落ちる。
「なに、が、げほっ」
口を開けると甘辛いたれが流れ込み、菜摘は咳きこんだ。
「大人しくしてろって言ったのネ」
猫なで声が嘲笑うように言った。
「んん・・・」
「ここでしっかりと揉みこんで、味をしみこませるからネ」
ペキーノは菜摘の体に手をかぶせ、むにむにと揉み始める。暴れようとしても身体をねじることしかできなかった。目をつぶり、口を引き結んで耐えるほかない。
「ふむ、そろそろいいかネ」
十五分後。満足気にペキーノが手を離したときには、菜摘はぐったりとボウルの底に横たわっていた。はあはあと荒い息をつきながら、口に入ったたれを吐き出す。縛られたままの手でようやく顔のたれを拭い取ると菜摘は目をしばたいた。ペキーノの姿は、見えない。
「・・・逃げ・・・なきゃ・・・」
つるつると滑るボウルの中で菜摘は拘束を外しにかかった。合わせられた両手にかじりつくように、歯で布を引っ張る。が、裂かれた菜摘のTシャツは何重にも固く結び目を作られ、たれを吸い込んでぐっしょりと濡れていた。黄色いはずの布が、たれの茶色に変わっている。
「・・・ぐ、う・・・っぺ・・・う・・・」
口に入り込むたれを吐き出し吐き出し、菜摘は手首の布を噛む。今はいないペキーノが、いつ戻ってくるのか分からないのだ。焦るほどに結び目がきつくなるような錯覚を覚えながら、菜摘は手首をひねり、布を引っ張った。
「まったく、チーキュ人というのはこんなに騒がしいものなのかネ」
ようやく一つ目の結び目が緩んだ時、ぐい、と菜摘の足が掴まれた。がっちりと縛ったつなぎに鋭い金属の串が突き刺さる。
「・・・ひっ・・・」
「大人しく、と言ったはずだがネ」
君に刺してもいいんだヨ、下卑た笑いを浮かべながら、ペキーノは金串を菜摘の手を縛った布まで一気に刺してしまった。ほどけた結び目をもう一度縛りなおされる気配に菜摘は身をよじったが、手も膝もほとんど動かすことができない。調味料まみれの菜摘の身体をまっすぐに磔にした状態で、ペキーノは金串を丁寧に皿の上に置いた。
「さテ」
寝転んだ格好の菜摘が落ちないように、白い皿をペキーノの手が持ち上げる。金串に磔になった菜摘を、飛び出た目がぎょろりと見た。
「あーあー、顔のたれを取っちゃっテ」
しょうがないなあというふうにボウルの中身を指ですくって塗りつける。とっさに目と口を閉じた菜摘の顔にべちゃりとてりのある茶色が塗られた。
「・・・わ、たし・・・わたしを・・・」
「どうするのかっテ?」
目を閉じたまま必死に口を開く菜摘ににたにたと笑いかけながら、皿を持ってペキーノは歩き出した。しゅんしゅんという湯の沸くような音が菜摘の耳に届く。皿を器用に片手だけで支えると、ペキーノは鍋のふたを取った。熱い湯気が皿ごと菜摘を包む。
「たれをしみこませた肉ハ」
「・・・うそ・・・い、や・・・」
蒸し鍋の音にかき消され、涙声はペキーノの耳に届かなかった。ぐっ、と皿が傾く。その白い面にたれの跡を引きながら菜摘は鍋の中へと落ちていった。
「いや、いやあああああああああああああっ!」
もうもうと上がる湯気の中から菜摘の絶叫が響く。その悲鳴を断ち切るように、ペキーノは蓋を戻した。
「高温で、かつ素早く蒸しあげル」
がちゃん、と閉まる音と同時に菜摘の声がぴたりと消えた。
「もう一人みたいにお前も寝てればよかったのにネ」
ペキーノの声も、もう菜摘に届くことはない。
五分後、蒸し上げられた菜摘をペキーノは用心しいしい取り出した。隣で熱しておいたフライパンに入れ、ボウルのたれの残りをからめながら焼き色を付ける。事切れた菜摘は声一つ上げなかった。
「盛り付けて、完成、ト」
白っぽく縮んだように見える葉野菜を千切って皿に入れ、その上に湯気を立てる菜摘の体を横たえる。
「野菜もチーキュのものでそろえたかったがネ・・・」
口ぶりは残念そうだが、顔は満足でとろけそうだ。細切りにした唐辛子をその腹の上に乗せると、ペキーノは大きく息を吸い込んだ。僅かに残る酒の香りと菜摘自身の香り。そしてさまざまなスパイスの香り。
「ほれぼれするネ、我ながラ」
食卓へ菜摘の乗った皿を運ぶと、ペキーノはその横にある浅めのスープボウルにもぎょろりと目を向けた。自らの膝を抱えるような格好で縛りあげられた洋子が、琥珀のような色のスープにその裸体を浸している。
「全くほれぼれすル」
もう一度同じ言葉を口にすると、ペキーノはナイフとフォークを握った。
「でハ・・・」
大ぶりに切った洋子の腕を丸ごと口に入れ、ペキーノは思わず感嘆の息を吐いた。
「柔らかく切れやすい肉質、しみ出る脂のこく、舌触リ!どれを取っても完璧だネ。煮込んだことで、骨までとけるようダ」
あっという間にその一口を飲み込むと、ペキーノは菜摘に勢いよくフォークを突き刺した。
「こっちは何と言っても、新作のレシピだからネ」
てらてらと光る、焼け目のついた腿を大きく切り取って頬張る。
「・・・なんト」
あまりに素晴らしい味に、雷に打たれたようにペキーノは押し黙った。
「・・・」
さまざまな香りに彩られたたれは舌に絡みつくようで、それを肉の味が優しくやわらげている。引き締まった肉の弾力は弱すぎず、しっかりと食感を残している。噛むほどにしみ出る脂はとろけるようで、それでいてしつこくない。口を開くことさえ惜しかった。
「・・・この一食しか作れなかったことが惜しいネ」
やっとのことでペキーノがそう呟いたのは、二つの皿が綺麗に空になった後だった。